初めての親子留学を終えて(下)
(前の記事の続き)
発展途上の海外で盛大な迷子になった日から
私は一刻も早くWiFiを手に入れなければと誓い2日後にようやくそれはやってきた。
Finally, I got the WiFi!!
こえを大にして叫びたかった。
これで私は無敵だ!!
左に見える白いのが現地のボーダフォンのポケットWiFi、右の黒いのがNokiaのローカルフォン。
ボーダフォンのポケットWiFiは本体は2500円ほど、そして更に月2500円くらいで8GB使える。ちなみにプリペイドではなく8GB使ってしまったら翌月(スタートから30日後)まで使えない。
Nokiaのローカルフォンはプリペイド式。本体は3000円ほどで、最初に1GB分がついてきた。
結局3週間しか滞在しない私はローカルフォンはプリペイドを足さずにすんだ。
そんなこんなで始まった私のフィジー生活。
ホストファミリーの家で出る食事はインド料理。
つまり
毎日カレー( ●´◡`● ) そして辛いのなんの。
たぶん彼らは 辛い=おいしい の感覚なんだろうな。
サラダなら辛くないだろうと思って食べたらハラペーニョ入りで口から火がでた。
でも、好き嫌いがない私は、なんでも美味しくいただいた。そしてそれもまたホームステイの楽しみの一つだと前向きに捉えて。
毎日カレーも、過ぎてしまえば懐かしい。
あの時は、帰国後カレーはもう食べたくないって思っていたのに。
フィジー生活で、お弁当を作るのが楽しかった。
娘の分と私の分、お昼は自分で用意しなければならいので前の日の夜に料理をしていた。
フィジーのオクラ。
オクラはそのままオクラで通じる。
でかい、多い、これで100円。驚き。
そしてこれはegg plant ナス。
花のような色と丸々としたフォルムが愛おしい。
味は日本のものとほぼ同じ。
娘も私もナス好きなのでほぼ毎日炒めてお弁当に入れていた。
ちなみに醤油は日本から持参していった。
スーパーには醤油があったけど1リットルで1000円くらいしてた。輸入ものは高いのだアンビリーバボー。
フィジーではマンゴーが有名だが、私たちが行った7〜8月は乾季。マンゴーはない。
そのかわり、スイカが多かった。
しかし、あまり甘くない。
日本のようになんでもハウスで育てられているわけでないから仕方がない。
英語が話せない娘。
プライマリースクール(小学校)の3年生クラスでどんな毎日を送っているのだろうと心配していた。
授業中なにしてるの?と聞くと
ひたすら黒板を写してる!
ふーむ、大丈夫だろうか。と心配をよそにこの笑顔。
彼女は彼女なりに楽しもうとしているらしかった。
小学校へ毎日お迎えに行くと
寄ってくるよってくる、わらわらと子供達。
日本人が珍しいのか、私の服装が奇抜なのか
話しかけてくる率90%!
その中の一人が言った。
「○○(娘の名前)は英語が話せないの?」
うん、そうなの。彼女は日本語オンリーなんだよ。
と言うと「そっか…いつも黙ってるから心配した。」と言ってくれた。
なので、英語話せないけど楽しんでるからこれからも仲良くしてねと言うと「もちろんー!バーイ○○!」と笑顔で去っていった。
私が9歳で、英語オンリーの環境にひとり放り出されたらどう感じただろう。
いや絶対に怖いと思っただろう。
何度も言うが、娘は自他共に認める
「石橋を叩いて叩いて叩きまくって結局渡らない」性格。スーパー慎重派で内弁慶。
そんな子が、その世界にポイッと入れられ、でも毎日「楽しかった!」と言うまで一体どんな葛藤や不安をぬぐい去り頑張っているのだろうと思うと、親バカも否めないが、私は娘を誇らしく思った。
ホストマザーや、3姉妹からも2日目に
「○○は初日、全く笑わなかった。でも今は見て!こんなに笑顔!」と言われるほど変化を見せていた。
言葉の壁は大きい。
でもそれは自分で小さくもできる。
そういえばフィジーはパクチー天国だった。
市場に行けば激安パクチー大特価。
パクチー大好きな私にはそれもまた幸せ。
ビールは飲めないがフィジーはフィジーゴールドという有名なビールがある。
何回か飲んだがとても飲みやすい日本のビールに似た味であった。
たった3週間。
されど3週間。
英語に触れ、異文化を感じ
私はとても貴重な体験をしたと感じた。
9歳の娘はどう感じただろう。
日本から持参したパックをホストマザーにあげであった爆笑したり
埃舞う、舗装されていない道を毎朝歩いたり
窓がない、開放感たっぷりなバスだったり
泥水にしか見えないフィジー伝統のカバという
木の根っこを乾燥させてくだいて溶かした飲み物を飲んだり(舌が痺れる)
これを刺激的と言わず何というのか。
辛いことは山ほどあった。
でもそれ以上に私の心を豊かにするものがここにはあった。
最終日のお迎えの時
娘の担任の先生とお話しした。
照れる娘。
先生は「○○は英語がわからないのに一生懸命ノートを書いていて、また算数の時は計算を一番早くに終わらせていたし、掃除が好きなのか掃除時間になると誰よりも綺麗にしてくれた。」と言っていた。
きっと1日のうち、言葉がわからなくてもできるのは掃除しかなかったに違いない。
けれども、娘もまたここでの生活を知り、日本が豊かだということも分かったようであった。
私の最終日は、卒業式。
その前日に多くの生徒が卒業して行ったため
10人ほどの生徒と先生に送る言葉をもらった。
そろってみんな私のことをCheerfulと言った。
ありがたいことに、私はのびのびと自分らしくフィジーで過ごすことができた。
一生忘れないだろう。
自分の決断と勇気、娘の順応性をとても誇りに思う。
Goodbyes are not really goodbyes, but just the beginning of a better life.
さようならフィジー。また会える日まで。
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