娘の誕生日を迎えて思うこと
4月5日、娘は9歳になった。
1/2成人式という行事が最近は10歳で行われるらしいが、いよいよそれまであと1年となったわけだ。
9年前を振り返れば、あんなことやこんなこと、涙なしでは語れないことばかりなので割愛するが、最近育児を通して漠然とだが思うことがある。
時代は遡り…
昭和53年に私は生まれた。
35歳の母と37歳の父の間に第一子として。
父は新宿生まれ新宿育ちだが両親は農家をやっておりゆるい家庭で貧乏だった。
母は麻布生まれ目黒育ちで、弁護士の家庭だったため裕福が故に非常に厳しく淑女として育てられた。
父も母も某財閥系の大手企業に就職し、結婚。
エリート街道まっしぐらな2人だった。
私が生まれたのは父の実家である新宿だったが、1歳の時に社宅へと移った。
そして私が19歳の時に両親が家を建てるまでの18年間、私は父の会社の社宅で育つことになる。
社宅とは読んで字のごとく、同じ会社に勤める従業員家族が住むところであり、言うなればどのお父さんも同じ会社へ出勤している。
つまり、お父さん同士はある程度顔見知りだったり、同じ部署だったりする。
一般的なマンションとは違い、家族同士が仲良くもなりやすく、特にお母さん方は井戸端会議という名のコミュニティを大切にしていた。
私が4歳の時、弟が生まれ、それまで独占していた両親の愛情が生まれたばかりの泣くだけが仕事の弟に取られたことが許せず、「川に捨ててきて!」と泣き叫んだこともある。
その時から、私は両親の顔色を見て、弟より好かれるにはどう振る舞えばいいかを学ぶようになった。
母が喜ぶ娘になりたい
母が他人から褒められる子供でいたい
私は5歳で敬語を話すようになり、遠慮を覚えていた。
目黒の祖母の家に行った時のことだ。
夏の暑い日で喉の渇きを潤したくて、母に何か飲みたいとねだった。
祖母は冷蔵庫の牛乳を飲んでもいいと言ってくれたが、母に水道水を飲みなさいと言われ、素直に受け入れた。
本当は牛乳が飲みたかった。
家では毎日1リットルを飲み干すほどの牛乳好きだったからだ。
でも母は祖母に遠慮をした。牛乳より安い水道水を勧めてきたのだから、そこで駄々をこねて母を困らすわけにはいかない。
それ以来、私は祖母の家で水道水以外を飲んだことがない。大人になっても、一度たりとも。
「遠慮ができて迷惑をかけない子供」であることで母が喜ぶと思っていた。
また、親族や母の友人、社宅の奥様方からは
「どうしたらこんなにいい子に育つの?」といつも言われるような女の子だった。
挨拶や礼儀はもちろん、他人が喜ぶための言葉選びをしていた。
(決して自慢している訳ではないことは理解してほしい)
今思えば、なんと子供らしくない子供だったのだろうと思う。
しかし、躾という名の抑圧は年齢とともに重く強くなっていた。
テレビは動物番組とニュース以外禁止、マンガもアニメも禁止、言葉遣いについての執拗な叱責、などなど。
それに少しでも反発、反抗しようものなら、髪の毛を掴まれ引きずり回され、挙句に玄関の外へ追い出され、一晩野宿ということも1度や2度ではなかった。
だからなるべくいい子でいることを心がけた。
両親の愛が欲しくて私を見て欲しくて、いい子にしていた。
なのに母は私を見るどころか、私の自由を奪い、躾という足枷をつけ、淑女というゴールへ突き進めとレールを敷こうとした。
幼い頃はそれを不思議にも思わなかったが、10歳の時、強烈に覚えている出来事がある。
理由は忘れたが、母から激しく叩かれ、ひどく叱られた私は泣きながらトイレに籠った。
私は両手を合わせ指を組み、神に祈るような姿勢で心で叫んだ。
「神様、神様、私の本当のお父さんとお母さんはどこにいるんですか?本当のお父さんとお母さんはもっと優しいはずなのに。早く会わせてください、お願いします!!!」
いつしかあまりの厳しさに心が耐えられなくなり、自己防衛のために本当の両親でないと思うようになった。
それをしなければ、当時の私の心は壊れてしまいそうだった。
当然、反抗期は人並み以上にひどかった。
父とは胸ぐらの摑み合いをし、母をクソババア呼ばわりし、両親が寝静まるのを見計らって夜中に家を抜け出し夜遊びをしていた。
母の財布から遊ぶお金をくすねたこともあった。
高校生の時の門限は17時、アルバイト禁止、お小遣いは3000円。
高校卒業してからも門限は19時で、何度も破りその度に締め出され最後は叩かれた。
おかげで父や母の腕が上がると叩かれるわけでもないのに首をすくめる癖がついた。条件反射として。
その中で、母は社宅のよその家庭を引き合いにだし「どこどこの誰ちゃんは慶応大学に、あそこの息子さんは東大に合格したんですって」と母が何の気なしにいう言葉を私は流しているようで心にずしりずしりと響いていた。
落ちこぼれの私。
勉強大嫌いの私。
大学なんか行きたくない。
私は専門学校に行くことにした。
そして厳しさから解放されたくて、どうしたら実家から飛び出せるかを考え、19歳の時に9歳年上の人と学生結婚。
天国だと思った。
親の監視がないことがこんなにも自由で幸せなことなのかと心躍った。
しかし不思議なもので、あんなに焦がれた自由を手にしたというのに拘束されて育った私は、自由を持て余すようになった。
いわゆる自立心というものが欠けていた気がする。
管理、監視されていないとどうしていいのかわからない。
社会人として致命的な状態で大人になった私は、与えられた仕事はこなせるが自分から考えることができなかった。
自分はダメな人間だと落ち込んだりもしたが、よく言えば楽観主義者、悪く言えば能天気なため、なんとかなると唱えて見て見ぬ振りをして、愛嬌だけを身につけた。
結果、なんとかなった。その場しのぎかもしれないがこうして生きてこれているのだから。
社会でもダメ人間な私は、家でももちろんダメだった。
片付けというものが苦手で、物を元の位置に戻せない。
出しっぱなしにしてしまったハサミを片付けようと、ハサミを持ったまま目的を遂行する前に、目に入った他の気になることをしてしまう。
するとその場にまたハサミを置く。
結果ハサミは片付かない。
家中のものに同じことしてしまうため、片付けることにものすごくパワーが必要になる。
これは自分の怠惰な精神も関係はしていると思いつつ、幼少期から大人にかけて実家で母が全て片付けてしまっていたことが関係しているのではないかと思うようになった。
とにかく母は綺麗好きで、なんでもさっさと片付け、掃除をしてしまう。
だからほったらかしていてもいつの間にか片付いていたのだ。
しかし私の娘は、私が全く片付けができないために私の母並みになんでも片付けたがる。
隔世遺伝なのか、反面教師なのかはわからない。
しかし私は相変わらず片付けが苦手だ。
娘のお手本にならねばと思うのだが、いつも娘に「ママ、ハサミ出しっぱなし」と怒られている。
娘が9歳になって思う。
私は自分がされて嫌だと思った子育てをしていないか?
なんでもかんでも抑制し、娘の心を縛ってやしないか。
「本当のママはどこにいるの」と思わせていないだろうか。
一人っ子だから、と厳しくしすぎてはいないか。
娘が時折妙に甘えてきたり、やけにとんがったりと不安定な感情を見せるたびに、私もこれで良いのか、間違ってはいないのか、と不安になる。
決していい子じゃなくて良い。
私みたいに母の顔色を伺うような子にはなって欲しくない。
ただ、いつもどんな時もパパとママはあなたの味方であると信じていてほしい。
どんなときもその手を伸ばせば、ママに届くことを信じていてほしい。
0コメント